沿革:井上馨侯と鮎川義介氏
井上育英会は大正15年(1926年)明治の元勲の一人井上馨侯爵の遺産の一部を元に発足しました。設立と運営の中心になったのは、侯を大叔父とする実業家・鮎川義介氏です。「国家社会に有用な人物の養成を」目的に、戦前は全国の旧制高校及び大学から学校長の推薦によって毎年30名前後の奨学生を採用して、大学卒の初任給にほぼ匹敵する月額50円〜60円の奨学金の貸与を行っていました。
第二次大戦後のインフレーションで財政困難となり、解散寸前にまで追い込まれましたが、鮎川氏ならびに本会の卒業生の援助により危機を脱し、その後順調に発展してきました。
維持・運営は全て卒業生の協力により行われている純民間の財団です。
井上馨(いのうえかおる)
1835年長州藩士の家に生まれる。通称は聞多。若くして高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、伊藤俊輔(博文)らと英国に留学して世界の現状に開眼、帰国して倒幕に活躍し明治政府で要職を占めた。我が国最初の内閣である第一次伊藤内閣の外相として、条約改正に取り組んだ。のち農相・内相・蔵相なども歴任。実業界の発展にも力を尽くし、元老として政財界に睨みを利かせた。1915年没。
鮎川義介(あいかわよしすけ)
1880年山口県に生まれる。東大工学部を卒業後、一職工として国内や米国の工場で現場の勉強を重ね、戸畑鋳物を創業。のち義弟久原房之助(久原鉱業、日立製作所の創業者)の頼みで事業を引き受け、日本産業を中核に日産自動車などを傘下に入れた日産コンツェルンを樹立した。その後日本産業(略称日産)を国策会社、満州重工業に改組して総裁に就任。戦後は中小企業の育成に力を注ぎ、中小企業助成会、日本中小企業政治連盟などを設立、参議院議員なども務めた。1967年没。